新戸スポーツ広場開設30周年記念祝賀会

戻る


 2006年10月1日(日)、新戸スポーツ広場管理運営委員会、30周年記念実行委員会の共催で、新戸スポーツ広場開設30周年記念祝賀会を開催しました。
 新戸スポーツ広場は、少年野球等のグランドとして、地域住民の憩いの場として、また相模の大凧まつり新戸会場として利用されています。
 30年前に新戸の有志数名が新戸の子供らのために思い立ち、相模川の河川敷の多くの地権者と調整し、手弁当で河原を整備して新戸スポーツ広場を作りました。100名強の現会員の多くが初めて聞く興味深い話が披露されました。
新戸スポーツ広場の草刈り作業

1 新戸スポーツ広場開設の発起人紹介
2 30周年記念実行委員会・佐藤昭文委員長の記念スピーチ
3 新戸スポーツ広場開設の経過報告(川崎滋氏)
4 祝賀会

1 新戸スポーツ広場開設の発起人紹介
・発起人:写真左から、山田豊彦、松下邦彦、石川龍二、会田弘隆、佐藤昭文、若林公二、飯山明、
 加藤寛、川崎滋、井沢元。角田昌久(欠席)、永田稔(欠席)、戸塚幸延(故人)(敬称略)

・写真右端は新戸スポーツ広場管理運営委員会・梅沢忠勝委員長

2 30周年記念実行委員会・佐藤昭文委員長の記念スピーチ

 みなさん、こんにちは。30周年、おめでとうございます。これも何より、会員の皆様、役員の皆様が、毎日グランドを守ってくれるからです。30年は長いようで、短いようで、発起人12名は嬉しく思っています。
 最初にこういう事をやろうと言い出したのは、私(佐藤昭文氏)と石川龍ちゃん(石川龍二氏)が、河原の土手の上で、東海大相模高校のグライダーが揚がっていて、それを見ながら、「イャー、子供の広場を作ろうか!」と言ったのが最初の発端でした。その頃は30年前ですから、頭が白かったり、禿げている人はいませんでした。子供は小学生ぐらいで、子供が遊べるグランドが無いではないか、また新戸には政治力のある人がいない、磯部にはいた、しかしそんな政治力に関係なく一所懸命にやろうという考えでやりました。
 その時には相鉄興産という大きな会社があり、大森さんと佐藤さんという方が土日になるとブルドーザで平らにならしてくれてました。また山谷に山があった頃は、佐藤工業が、また我々の仲間の川島さん達にダンプを出してもらって、河原まで土を運んでくれたました。
 皆さんが心を持ってグランドを思い、また凧を思い、やってくれたから、30周年を迎えることができました。政治力のない我々がこれ程の事をやろうとしたことに対して、総合整備事務所へ行った時は、「偉い人を連れて来いよ。」ということを言われました。ブルドーザを動かす時は赤白の旗を揚げなくてはいけない等、色々な問題がありました。桜を植えようか植えまいかも問題でした。こういう風にずっとやってきました。会員の皆様が一人1万円を出して、費用不足でしたが、3間の凧を揚げました。そういう経過があり、8間の大凧を揚げるまでになりました。前はグランドの会員だけでバスを借りて旅行にも行きました。今はこれだけ会員が多いと、旅行へ行くにも、またこのような会を開催するにも場所が無くて大変なことです。今は百数十名の会員ですか。これを取り仕切る会長さん、役員さん、大変ご苦労なことです。これからも末永く、新戸が一丸となってグランドの仕事をやっていただきたいと思います。
 最後になりますが、あの土地は民営地です。役員の方は、人にグランドを貸すことには十分に気をつけてください。人に貸して既成事実ができると断るのはなかなか大変です。グランドは会員がお金を出しボランティアでやっています。
皆で一所懸命やるグランドです。凧も一所懸命揚げて大きくなりました。大きいのが良いのか小さいのが良いのかという議論もありますが、皆さん一所懸命やってくれました。
 会員の皆様、お仕事があり大変と思いますが、これからも年3回の草刈り等にご協力をよろしくお願いします。
 はなはだ簡単ですが、挨拶に代えさせていただきます。

3 新戸スポーツ広場開設の経過報告(川崎滋氏)

 昭和48年年末の国会議員選挙の会合で、本会の発起人の7、8名が顔を合わせた。今から33年前のことである。その時、我々で新戸のことで何かできないかという話が持ち上がった。そして、当時は盛んであった子ども会野球とドッジボールと大凧揚げのための広場を河原に作ろうということになった。
 当時は東海大学付属相模高校がグライダーの滑降訓練に河原を使用していた。しかしその使用方法について問題が生じていた。第二の新磯野土地事件になると大変だということもあって度々交渉を重ねた結果、返還された。とは言え、ススキや、背丈を越す雑木、ヘドロ、凸凹の河原を現在のような広場にすることは、困難なことばかりであった。しかし当時のメンバーの固い約束は、「政治家と特定の会社に頼まない」ということであった。
 このため「寄り合い」会議を数知れず開催、話に夢中になり、夜中の1時2時は当たり前であった。場所は、いつも植藤さん(石川龍二氏の会社)の事務室で、そこにあった御酒を頂戴しながら計画案の話は尽きなかった。最初は、使用する場所の決定、河川敷内の土地所有の調査、相模川左岸事務所と許可のための交渉、整備工事の進め方など、皆初めてであったが、一つ一つ課題を解決していった。
 「若いもんが、何やってもできなかんべぇ」といわれる中、今は亡き戸塚幸延氏は、力強い存在であった。当時戸塚氏は、50歳足らずで新戸自治連合会長をされて、この計画の実行に御尽力をいただいた。またよく怒られた。(その時は、めがねが鼻の下の方までずり落ちていた) 計画を進めるメンバーは、最年長者が36歳の会田弘隆氏、最年少は私(川崎滋)と井沢元氏の24歳であった。
 地権者数は139であり、3、4回説明会などを開催して計画の理解を深めていただいた。左岸の許可申請などは、7、8名で押しかけ直談判をして許可を得た。市役所の対応は、民間の土地であるからと相手にされなかった。続いて、土地所有者の理解を得て作業がスタートとした。
 実際の作業は、約1年程度を要したと記憶している。時に山谷の山の土地整備があり、その残土を河原の整地に利用し、残土運搬や、整地作業は河原の近隣にあった相鉄興産の作業員の方、植藤さんの機械の提供などがあり、徐々にではあるが、河原が平坦になり、砂利が土のグランドに変わっていった。続いて、砂まきは、河川敷内各所に拠っていた砂を一輪車、軽トラ、小型ダンプなどで運び、グランドに撒いた。この作業が長くかかった。整地が済んだ所から雑草、芝生の種を撒き、草の河原になるように作業を進めた。現在の草刈作業はこの時から始まった。
 作業に予算は全くなく、昼食は一旦自宅に帰り、また河原に戻り作業再開する。終わりのお茶は、最年少の川崎、井沢氏の係りで、横宿の川崎酒屋で一升瓶を買って河原で本当の一杯であった。夕方暗くなると車のヘッドライトを点けてグランド整備工事の話をした。(グランドを作っている連中は河原乞食などと呼ばれたりもした由縁である)
 昭和50年年末に概ね整備が完了、翌昭和51年2月22日に広場開設記念として新戸自治会対抗ソフトボール大会を開催した。相前後して新戸スポーツ広場と命名し、「新戸スポーツ広場管理運営委員会」を設立して管理等を行うことになった。その後、数年で現在の南半分の整備を行った。この土は広域下水道の本管工事の残土を利用した。
 当初10人足らずで始めたことが、現在100名を越す会員に成長した。地元のために自分で会費を払って河原で草刈をするという当初の開設の精神は今に受け継がれている。
4 祝賀会

 発起人の紹介、記念品贈呈、記念スピーチ、経過報告に引き続き、祝賀会を開催しました。右の写真ををクリックすると祝賀会に出席した新戸スポーツ広場管理運営委員会会員の32枚の写真を見ることができます。

先頭へ

Copyright(C) 2005-2006 The Sagami Giant Kite Preservation Association. Allrights reserved.